本当に長い間このブログをお休みしていました。
前回の投稿を見ていただければわかるように、最後の投稿は2011年3月11日午前9時でした。あれから東北の、福島の、日本の、世界の、そして私たちの小さな家族に起こった数々の出来事に、このブログを更新することは物理的というよりも心理的にできませんでした。
私たち三人のいずれにとっても、深大寺は「第二のふるさと」。
実家(ドイツ・関西)から遠く離れて、誰も知らない中で共働きで小さな子ども(当時4歳)を育てることを不安に思っていた私たちにとって、深大寺界隈の素晴らしい環境や地元住民のみなさんとの温かいやり取りは、そのどこを取っても「我がふるさと」に相応しいものでした。
また、私にとっては、自分の幼少期の京都、アフリカの村々、人びとから学んだ、「子どもを親だけで育てない、家族だけでもなく、コミュニティではぐくむ」というポリシーを、試みる実践の場でもありました。そして、コミュニティはそれに応えてくださいました。「足りない」を「豊かさ」につなげる(この場合血縁がいないことを地縁関係の豊かさに)ことの意味を、からだでもって学ぶことができました。
海にとって、お寺の境内を通っての通学。裏山でのカブトムシ捕り。池でザリガニ釣り。川でメダカ釣り。自転車に乗って小さな売店で毎月コロコロを買い、友達と自由広場でサッカー・・・東京都にいるにもかかわらず、なんとも子どもらしく、幸せな日々を送ることができました。
深大寺界隈を歩けば、「海くん、この間●●してたよ」と声をかけてもらい、駄菓子屋さんでアイスをごちそうになり、見守りのおじさんが一緒に歩き、どうしてもお迎えにいけない時は誰かが行ってくれ、近所のおたくでテレビを見せてもらう・・・。
子どもにとって、深大寺全体が、大切な大切なふるさとで家族のようなものでした。
クラーセンにとっても、深大寺はどこよりもふるさとらしいふるさととなりました。19歳でドイツを出て日本に来て、長年東京のど真ん中に暮らした彼にとって、子育てをしながらの深大寺の暮らしは、彼に初めてルーツのようなものを与えてくれました。
保育園で、学校で、深大寺で、「海くんのパパ」と呼ばれ、当たり前にコミュニティのメンバーとして(外国人としてではなく)受け入れてもらったことが与えた心地よさは、彼に大きな自信をあげたことと思います。そして、海のサッカーチームとのかかわりもまた、仕事や深大寺だけでなく、別の居場所を彼にプレゼントしていました。
でも、彼にとって一番大きかったことは、深大寺通り町づくり協議会の主力メンバーとなったことでした。愛する深大寺の素晴らしい環境を後世に残しながらも、もっとよくしようと彼がどれほど心を砕き、努力し、充実した毎日を送ったか・・・そばでみていたからこそよくわかります。そして、っ協議会副会長に就任した途端に起こったのが先の震災・原発事故でした。
チェルノブイリ事故の影響が大きかったドイツで育ったクラーセン。アフリカや阪神淡路で緊急支援に携わってきた私。そして毎年アフリカに行く際に、緊急退避経路を確認することが当たり前になっている子ども。何事も多様な角度から調べ、最悪を想定し、決断をし、決断したらただちの行動をモットーとする私たち家族にとって、あの時点で一旦関西に引き上げ、子どもをドイツに送ることに躊躇はありませんでした。
ただ、私としてどうするかは最後まで迷いました。なんといっても事故発生時小学校4年生。まだまだ母親が必要な時期です。
しかし、何よりも学生を残していけない、自分の子どもが安全なところにいるのであれば、ほかの子どもをなんとかしなければ・・・と思って、悩みに悩んだ挙句、東京に一人残った私にとって、誰もいないこの家に帰り、寝る生活はとても耐えがたいことでした。あれほどまでに私たち家族によくしてくれたコミュニティのみなさんにも申し訳ない気持ちがありました。
また、ドイツに行って子どもに会うたびに、心が揺れました。でも、海のいつもの一言が私の背中を押してくれました。「どーせママ、ドイツいたって僕の手伝いできへんやん!ドイツ語へたやし!」泣けてきます・・・。そして、一通り理不尽さと寂しさに泣いたあと、「でもこれは僕にとって大きなチャンスだ。挑戦だ。よかったと思う」といって笑う姿に励まされてここまで来ました。
でも、「ふるさと深大寺」に戻ってきたくてたまらなかったクラーセンと海が我慢していることを思うと、なかなかこのブログに向き合うことができませんでした。
この1年半、大学を続けながらも、多くの学生・仲間・見知らぬ人たちの協力を得て「福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクトFnnnP http://fukushimaneeds.blog50.fc2.com/」を立ち上げ、栃木・新潟・群馬・茨城・首都圏に避難中のご家庭、福島に残るご家庭350世帯のサポートをしてきました。と同時に、ドイツと日本を1.5か月に1度往復する生活でした。また、クラーセンと海が望んでもできない脱原発のための活動も続けてきました。
ふりかえってみて、心身ともに苦しい毎日をやりすごすことができたのも、ここ深大寺の環境とみなさんと我が家のおかげだったのだと思います。
まだ定期的にブログを更新できるだけになってはいません。カテゴリータイトルをみればわかるのですが、あまりに生活が変わってしまい、とてもそのような心境になることができないからです。特に、家族だけでなく、私がこの間夢中になっていた「畑と台所と食をつなぐ試み」が、できなくなったこともまた大きなダメージとなってしまいました。
以上、18か月以上放置してしまったので、ご報告しておきます。
なお、私のヘンテコ、「子・ママ育ち」については、メインブログの「深大寺日記」のほうを→http://afriqclass.exblog.jp/i8/
「母を先生を信じてはいけない」という教訓
http://afriqclass.exblog.jp/14167879/
Quality of time(時間の質)と子育てについて考える
http://afriqclass.exblog.jp/14154835/
遠くにいるわが子に想いを馳せながら食べる手料理
http://afriqclass.exblog.jp/13918098/
さようなら、日本の「普通教育」。シュタイナー学校に行くことになった我が子と「魂の鳥」
http://afriqclass.exblog.jp/13063647/
前回の投稿を見ていただければわかるように、最後の投稿は2011年3月11日午前9時でした。あれから東北の、福島の、日本の、世界の、そして私たちの小さな家族に起こった数々の出来事に、このブログを更新することは物理的というよりも心理的にできませんでした。
私たち三人のいずれにとっても、深大寺は「第二のふるさと」。
実家(ドイツ・関西)から遠く離れて、誰も知らない中で共働きで小さな子ども(当時4歳)を育てることを不安に思っていた私たちにとって、深大寺界隈の素晴らしい環境や地元住民のみなさんとの温かいやり取りは、そのどこを取っても「我がふるさと」に相応しいものでした。
また、私にとっては、自分の幼少期の京都、アフリカの村々、人びとから学んだ、「子どもを親だけで育てない、家族だけでもなく、コミュニティではぐくむ」というポリシーを、試みる実践の場でもありました。そして、コミュニティはそれに応えてくださいました。「足りない」を「豊かさ」につなげる(この場合血縁がいないことを地縁関係の豊かさに)ことの意味を、からだでもって学ぶことができました。
海にとって、お寺の境内を通っての通学。裏山でのカブトムシ捕り。池でザリガニ釣り。川でメダカ釣り。自転車に乗って小さな売店で毎月コロコロを買い、友達と自由広場でサッカー・・・東京都にいるにもかかわらず、なんとも子どもらしく、幸せな日々を送ることができました。
深大寺界隈を歩けば、「海くん、この間●●してたよ」と声をかけてもらい、駄菓子屋さんでアイスをごちそうになり、見守りのおじさんが一緒に歩き、どうしてもお迎えにいけない時は誰かが行ってくれ、近所のおたくでテレビを見せてもらう・・・。
子どもにとって、深大寺全体が、大切な大切なふるさとで家族のようなものでした。
クラーセンにとっても、深大寺はどこよりもふるさとらしいふるさととなりました。19歳でドイツを出て日本に来て、長年東京のど真ん中に暮らした彼にとって、子育てをしながらの深大寺の暮らしは、彼に初めてルーツのようなものを与えてくれました。
保育園で、学校で、深大寺で、「海くんのパパ」と呼ばれ、当たり前にコミュニティのメンバーとして(外国人としてではなく)受け入れてもらったことが与えた心地よさは、彼に大きな自信をあげたことと思います。そして、海のサッカーチームとのかかわりもまた、仕事や深大寺だけでなく、別の居場所を彼にプレゼントしていました。
でも、彼にとって一番大きかったことは、深大寺通り町づくり協議会の主力メンバーとなったことでした。愛する深大寺の素晴らしい環境を後世に残しながらも、もっとよくしようと彼がどれほど心を砕き、努力し、充実した毎日を送ったか・・・そばでみていたからこそよくわかります。そして、っ協議会副会長に就任した途端に起こったのが先の震災・原発事故でした。
チェルノブイリ事故の影響が大きかったドイツで育ったクラーセン。アフリカや阪神淡路で緊急支援に携わってきた私。そして毎年アフリカに行く際に、緊急退避経路を確認することが当たり前になっている子ども。何事も多様な角度から調べ、最悪を想定し、決断をし、決断したらただちの行動をモットーとする私たち家族にとって、あの時点で一旦関西に引き上げ、子どもをドイツに送ることに躊躇はありませんでした。
ただ、私としてどうするかは最後まで迷いました。なんといっても事故発生時小学校4年生。まだまだ母親が必要な時期です。
しかし、何よりも学生を残していけない、自分の子どもが安全なところにいるのであれば、ほかの子どもをなんとかしなければ・・・と思って、悩みに悩んだ挙句、東京に一人残った私にとって、誰もいないこの家に帰り、寝る生活はとても耐えがたいことでした。あれほどまでに私たち家族によくしてくれたコミュニティのみなさんにも申し訳ない気持ちがありました。
また、ドイツに行って子どもに会うたびに、心が揺れました。でも、海のいつもの一言が私の背中を押してくれました。「どーせママ、ドイツいたって僕の手伝いできへんやん!ドイツ語へたやし!」泣けてきます・・・。そして、一通り理不尽さと寂しさに泣いたあと、「でもこれは僕にとって大きなチャンスだ。挑戦だ。よかったと思う」といって笑う姿に励まされてここまで来ました。
でも、「ふるさと深大寺」に戻ってきたくてたまらなかったクラーセンと海が我慢していることを思うと、なかなかこのブログに向き合うことができませんでした。
この1年半、大学を続けながらも、多くの学生・仲間・見知らぬ人たちの協力を得て「福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクトFnnnP http://fukushimaneeds.blog50.fc2.com/」を立ち上げ、栃木・新潟・群馬・茨城・首都圏に避難中のご家庭、福島に残るご家庭350世帯のサポートをしてきました。と同時に、ドイツと日本を1.5か月に1度往復する生活でした。また、クラーセンと海が望んでもできない脱原発のための活動も続けてきました。
ふりかえってみて、心身ともに苦しい毎日をやりすごすことができたのも、ここ深大寺の環境とみなさんと我が家のおかげだったのだと思います。
まだ定期的にブログを更新できるだけになってはいません。カテゴリータイトルをみればわかるのですが、あまりに生活が変わってしまい、とてもそのような心境になることができないからです。特に、家族だけでなく、私がこの間夢中になっていた「畑と台所と食をつなぐ試み」が、できなくなったこともまた大きなダメージとなってしまいました。
以上、18か月以上放置してしまったので、ご報告しておきます。
なお、私のヘンテコ、「子・ママ育ち」については、メインブログの「深大寺日記」のほうを→http://afriqclass.exblog.jp/i8/
「母を先生を信じてはいけない」という教訓
http://afriqclass.exblog.jp/14167879/
Quality of time(時間の質)と子育てについて考える
http://afriqclass.exblog.jp/14154835/
遠くにいるわが子に想いを馳せながら食べる手料理
http://afriqclass.exblog.jp/13918098/
さようなら、日本の「普通教育」。シュタイナー学校に行くことになった我が子と「魂の鳥」
http://afriqclass.exblog.jp/13063647/
#
by jindaiji_nikki
| 2012-09-16 13:48
| お知らせ